初対面でも話しかけたい

初対面の人であればあるほど話しかけてみたいと思ってしまう私はなれなれしい人なのだろうかー。自分を客観視するとホントもう砂漠か深海にしか居場所がないんじゃないかとか思ってしまう。

 

 

例1)病院のエレベーターで一緒になった親子連れ

「ボタン押しちゃダメって言ってるでしょ」「押したい~」そんなやりとりが聞こえてきて、ボタン近くに立っていた私は「押してみたいよね、どうぞ~降りる階で押せるかな~?」と思わず話しかけた。お母さんにも「可愛らしいですね」とも言った。

親子連れは、私をお節介な人と思ったか、話付きのおばちゃんと思ったか分からない。想像できない。

 

例2)スーパーでクジ引きチケットをもらったとき

そういうクジ引き関連に興味がない私は、後ろに並んでる人に「集めてますか?」と声をかけて渡してしまう。大半は受け取ってくれるのだけど、逆に私がチケットを渡されそうになったことがない。これは一般的には失礼にあたる事なんだろうか。

 

上述したのはほんの一例。最近の自分を省みると、ヒトとみるや話しかけてる気がする。初対面の人と数秒の会話をして、私が感じるのは「同じヒトだよね」って確認をしたいという事と、昨今社会問題になっている孤独問題で、「孤独なんて思いこみだからね、みんないるからね」という一方的な応援。決してマウントとってやろうとか、境界侵犯してやろうなんて思ってないんだけど、そう受け取る人もいるだろうし、そこまでは私がコントロールできる領域じゃないから仕方ない問題。

 

問題は、私があまりにも「人類みな兄弟」すぎるから、みんなが大事にしてる上下関係に価値を見いだせない事と、人が持つ壁に無頓着な傾向があるってこと。

 

◯上下関係

コレって本当に必要なモノなのかな?例えば新入社員だったらキャリアを積んだ上司に仕事を教えてもらう態度は然るべきものがあると思うけど、それは人格とは関係ないこと。習う分野以外での交流では、老いも若きもお互いに尊重されなくてはならない。

もっと言うなら、路上生活者であろうが社長であろうが、身体に不自由を持つ人であろうが、性的にマイノリティであろうが、人はみな自分のすべき事を果たしている尊い存在で、お互い人生のチャレンジを果敢に旅するものとして同列とするなら、お互いを尊重しあうだけでいいじゃない。上下関係・優劣意識なんてどんな角度から見てもその価値を見いだせない。

「尊敬しています」なんて目上扱いされると本当に居心地が悪くて「有難うございます」という作り笑顔の裏で「じゃあアナタには尊敬できない人もいるということですか?」と持論を展開しそうになる。←カワイくない

でも、その人が後生大事にしているモノサシを取り上げる権利は私には無いので、もし「馴れ馴れしいわね!」と怒られたらゴメンナサイするしかない。結局、どんなに理解できなくても私にはどうすることもできないということ。無力感。

 

◯人が持つ壁

壁ってなんなんだろうな?家の壁のように、内と外を分けるモノとするなら、心で感じてる事を表現するのが内で、それをぐっと慎むべきなのが外という感じかな。で、それはなぜ有るのかというと、内にあるものを守りたいからだよね。守りたいのは「奪われると思いこんでいる」から。奪われるモノなんて本当は何もないって理解すると、壁に穴を開けることも、なんなら取っ払ってしまうこともできるようになる。

なんて偉そうに書いてるけど、私だって「奪われるトラウマ」に最近まで悩まされていた身。男性から声をかけられただけで(内心)敵意をむき出しにしてたから、分からないことはない。

 

結局、声をかけないことがその人の安全地帯を脅かさない事に繋がるんだろうね。寂しいことだけど仕方ないのかもしれないね。同じヒトとしての連帯感を感じたいなんて我が侭は諦めるしかなさそう。分離を味わうために地球に来たのだから、思う存分感じとくのが正解ともいえるしね。天に還ったら報告しよう。分離とは甘くしびれるほど切なく、また身を切られるほど切ないものでしたと。

 

こうして文字にして吐き出してやっと結論がでた。お目汚しな記事を読んでくれた方、ごめんなさい。もう初対面の人にやたらと話しかけるのはやめよう。

 

とはいえ、孤独問題は取り組んでいきたい問題でもあった。孤独じゃないよ、みんないるよ!と伝えたいけど、上下関係やら壁やらを通過して想いを届けるなんて事は稀にしか出来ないことなのかもしれない。自分が気付く(視界を広げる・視点をあげる)しかないというのは重々わかっているけれど、事件を起こしそうなほど孤独に追い詰められているときに、ふと目にとまるフリーペーパーなような寄り添い方はないものだろうか。